次回の弥彦ミッドナイト競輪は8月30日(水)から9月1日(金)までのTeNYテレビ新潟賞(F2)

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-越後の闘将-
最終回

さて、いよいよ最終回。もちろん、話は 1978年9月26日に西宮競輪場で行われ た第21回オールスター競輪の決勝戦(当時 は優勝戦)。勝ち上がりのこととか、何し ろ26年も前のことで、天野康博さん(52)本 人も、「すみませんが、忘れました」。  近畿地区で競輪の専門紙を発行している 競輪研究さんに資料をお借りして追跡した。

78年初めての特別競輪(GⅠ)は7月の高松宮杯(現在の高松宮記念杯)。結果は33634。以降の成績は。
▽7月29日 前橋 223  初日特選は高橋健二にマー ク。準決、決勝は中野浩一にマーク。
▽8月13日 豊橋 135
▽8月24日 大垣 7欠欠  2日目以降を右ひざの関節炎を理由に欠場。
▽9月10日 武雄 欠場

そして、9月21日に開幕した第21回のオールスターを迎えた。開催は02年3月に廃止された西宮競輪場。当時、阪急ブレーブス(現オリックスブルーウェーブ)の本拠地だった西宮球場のフィールドに競輪開催のときだけ、鉄骨を組んで、アスファルトの33バンクを作り上げていた。

一次予選は21日で、塚本昭司(茨城)に再度マークして2着。荒川秀之助(宮城)が2着失格で繰り上がった。翌々日、23日の二次予選は4角で内を突いて3着。また1日はさんで、25日が準決。バックまくりの福島正幸(群馬) にマークして2着。これで決勝を決めた。「前の夜はいつも通り、浴びるほど飲んで寝ました。当日はいつも一緒に走るメンバーなので、特別にどうということはあまり感じなかった」。メンバーは

1高橋 健二(愛知)
2福島 正幸(群馬)
3堤  昌彦(福岡)
4渡辺 孝夫(大阪)
5緒方 浩一(熊本)
6桑木 和夫(栃木)
7国持 一洋(静岡)
8天野 康博(新潟)
9中野 浩一(福岡)

レースは高橋、中野の先行争い。後方に位置した福島―天野が狙いすましたまくりを放つ。福島の踏み出しにちょっと離れた天野だったが、3 角では追いつき、直線で4分の3車身交わして優勝。「特別の準決勝もこの西宮だけだからねー」という天野さん。「2センターでは抜けるという確信があった。そこからゴールまでは、もう楽しくて」。 特別競輪の決勝では、最後の4角を絶好の番手で回った選手が、緊張からだろう、ペダルを3角に回し失速することがよくある。それを初の決勝 で楽しんでいるとは。豪傑。

優勝賞金は1127万円(現在は4000万円)。94年に取材したとき。「賞金は仲 間とみんなで飲んで、なくなりました。副賞なども人にあげたし、手元には何も残っていません」と応じてくれた。 豪快、太っ腹。この優勝は新潟日報の1ページ全面の広告 にもなった。仲間たちがお金を出し合って実現。これも愛すべき人柄がなせるワザ。

その後、特別競輪には83年の平オールスターまで出走。 全盛期はこのあたりまでになる。「練習はやっていたけど とことんまでの、実の入ったものではなくなった」。

桐箪笥作りを手がけ、やがて、現在の仕事になっている古美術の世界へ。これからのことを尋ねると、「やるからには、 (左手を膝を上に置き、右手を頭の上にかざし)、こうなりたい」。そう、天野さんは自分の意志で決めたことにはあらん限りの情熱を注ぎ込む人である。「そろそろ、競輪場にも行ってみようかとも思っているんですが…。高校時代から35年も自転車に乗っていたし、拒絶反応を起こしているのかもしれませんね」。

-越後の闘将-
第六回

さて、この連載も残り2回です。番手を狙う競走で強豪への階段を登っていった天野康博さん(52)。1978年9月の西宮オールスターで県選手初の特別競輪のタイトルを獲る。その前の年からの流れを追ってみる。

デビューが72年4月。それから5年を迎えた77年。天野さんは全盛期に入った。ほとんどが記念の出走だったが、 特別競輪を除くすべての開催で決勝にコマを進めた。28期 で日本一のマーカーとして名をはせた国持一洋さんと天野さんだけの記録だ。

「無駄な力が入らず、重心が下に沈み込んでいく。どんな展開でも対応できる。例えば、目の前で落車があってもまるでスローモーションを見ているように、こうなるから こうよけるといった具合。競走で後方に置かれても自分が直線で踏んでいくコースが、 ほかの選手を縫うように見えるし、その通りに踏める」。 これはひとつの境地。アテネ五輪の女子マラソンで優勝した野口みづき選手が、「練習はウソをつかない」と言ったが、天野さんにも結果がついてきた。

当時の記念競輪は3日制。 初日に特選シードされると、 全員が準決(準優と呼ばれて いた)へ進出。準決の3着以内が決勝(優勝戦だったな)に。「だから、準優の3着が問題なんだけど、目標にした選手が出られなくても、どんな位置からでも3着にこられる自信があった」。

そして翌年78年3月のいわき平で開催された日本選手権競輪(通称ダービー)で事件が起きた。当時のダービーは1月、2月にトップの216人がトライアルを2回走り、その得点の上位選手が本大会に出場できた。天野さんは特選シードの得点を稼いだが、失格が多いという理由で、本大会の出場を取り消された。「それならトライアルに参加させるな、ということです」。

ちょっとした騒動となったが、決定がくつがえることはなく、天野さんはテレビでダービーの決勝を見る。メンバーの中には同僚・渋川久雄さんの名前があった。

すべて6日制だった特別競輪の前後1週間以上、参加選手は配分があいていた。「特 別競輪はだいたい渋川さんと一緒だったので、そのとき、 あっせんのない若手も誘い、 合宿をしてから特別に参加していた」。

決勝の渋川さんは、先行する山口健治―山口国男―藤巻清志の4番手を回って4着。 「参加できない悔しさもあって、今度は俺がやってやるという気になりました。闘争心に火がついて、かえって、よかったのかもしれません」。

-越後の闘将-
第五回

天野康博さん(52)は1972年にデビュー。工夫された練習と、それに耐えうる頑丈な体、強くなるという精神力のおかげで、A級1班の座を獲得し(今のS級1班)、特別競輪の常連に。県選手初のタイトルとなった78年秋の西宮オールスターは10月号、11月号に持ってくるとして、今回はちょっと番外編を。

天野さんに、最初の自転車はどこのを選んで、自分のサイズとかが決まったのはいつなんです?と質問したときのこと。返ってきた答えは「自転車は人任せで、何に乗っていたのかも知らない。追い込み用っていうだけで」。最近はセッティングをいろいろ試す選手が増えたし、児玉広志選手のように、試行錯誤の上サドルの立ったフレームを作った選手も。その逆にまったく無頓着の人もいる。天野さんのことなんですが…。

でも、まだ現役を張る北海道の藤巻清志選手のアドバイスで右と左のクランクの長さを変えたことがあった。「最初は効果があるけど、体が慣れてきちゃうんだよね」。また、元に戻している。

そういえば、天野さんは、 競輪のルールをよく知らないことでも有名。昨年5月の弥彦。目標にした選手が内をスルスル上がっていった。天野さんは2車身くらい離れて、 内帯線を切って、これを追いかけて失格。見ていた僕らは 「やっちゃった」と声をあげたが、御本人は、端から見ていると、うん、そうなのかといった感じ。「何か、競輪のルールって、コロコロ変わるでしょ」。競輪の形態が複雑 になり、選手も新しいルールの元で、いろいろ考え走る。 ルールと選手の知恵はいたちごっこの面がある。

でも、ただの無頓着ではない。しっかりした技術に裏打ちされている。審判を担当する競技会の職員が、天野さんと内側追い抜きの話をしていた。職員が、「天野さん、内帯線と外帯線の間を走っている選手を内帯線を切って、追 い抜いたら失格」。天野さん は、それに対し「前の選手が ラインの中を走っていて、俺 も内帯線を切らずに、抜いていけるよ」。職員はすかさず 「そんなこと、できるわけないでしょ」。

「じやあ」と、 天野さんは、実際に、選手を外帯線と内帯線内に走らせ、 それを内帯線を切らずに抜いて見せた。職員はあんぐり。

マーク屋として、一番大事なことはバランス。それを鍛えることに余念がなかった、 その実力がそこにはあった。 追い込み選手は好位を得るために外から競り込み、または脚をためて、直線で突っ込む。 競輪はもっと単純なもの。力をつけ、技を磨く。負けたら、 また練習する。シンプルイズ ベスト。

-越後の闘将-
第四回

前回、人に言われるのが大嫌いな天野康博さんが、全国で初めての、街道の自動車誘導を始めた話を書いた。「一流選手は自分独自の練習方法を持っている」と、天野さんは言う。でも、その練習をやれる体を持っていた、というのも見逃せない。「デビューしてから7、8年くらいは目いっぱいやった」。

A級で番手、番手のレース を始めた1973年。阿部道 (宮城)、福島正幸(群馬) とともに、当時3強と言われた群馬の田中博に外から競りかけた。当時の競輪は、今のような地域重視で並ぶものではなく、一番強い追い込み型が、一番強い自力型の番手を主張するもの。追い込み型は競り勝つか、後ろから前の選手を抜くかで、自分の番手をひとつ、ひとつ上げていく。

早福寿作さんがルートを築いたといっていい、冬場の前橋への移動。当然、天野さんも群馬へ出かけようとした。しかし、田中さんに競ったことがよく思われず、それならと、ひとりで千葉県は九十九里浜の成東町へ。「東京のおじさんの紹介でそこにした」。

宿泊は冬場は使わない海の家(新潟でいう浜茶屋)。太平洋の風をまともに受ける。「真っ暗なうちから起きて、何十キロかウォーミングアップで乗って、めし。鴨川まで往復100キロを乗って、めし。近くの山へ何十本かもがきにいって、めし」。

「体がこわれちゃうじゃないですか」と尋ねると、笑って「俺は体が丈夫だったから。 みんなと合宿をやっても、全然へばらない」。山崎登選手がかつて、こう言っていた。「練習したあとにがっつり呑んで、こっちは疲れと二日酔いでどうしようもないのに、 天野さんは、平気な顔で、翌日の朝、練習やろうと迎えに くる」。

「まあ、次の年は近くの民宿に泊まったけどね。千葉へ冬季移動したのは3、4年くらい」。

天野さんがまだ現役だったころ、選手会の新年会の2次会で席が隣りだったことがある。「俺はね、素質なんて、 全然ないから、練習するしかなかった。だから、雨が降って、練習ができないときでも 上がらないかなって、気になるんだよね」と話していたことを思い出した。

デビューして4年目の76年 3月。千葉で行われた日本選手権競輪(通称ダービー)が特別競輪(今のG1)の初出走。結果は2着、6着、4着、5着。千葉県と天野さんには少なからぬ縁がある。

千葉で特別に初参加し、9回目の特別競輪が78年9月の第21回オールスター競輪。それまでの特別で32走して、1 着4回、2着3回、3着6回の男が、そこでとんでもないことをやってのける。

次回へ続く

-越後の闘将-
第三回

競輪学校時代はわずか2勝。まったく目立たない選手の卵だった天野康博さんは、1972年1月30日に29回生として無事卒業。4月16日に弥彦競輪場でデビューした。1着、3着で決勝進出。決勝 は同県同期の遠藤清彦さんを引っ張って、2着に粘った。 名うてのマーク屋としての印象が強いが、デビューしたてのころは、新人らしく、先行するか、できないかのバリバ リの逃げ選手。

「競輪の読みとかがさっぱりだったから…。どういう風に走ればいいとかがね。だから、ただ前へ出て、走ればいいという感じ。でも出てからも、どこで踏んでいけばいいとかがわからない」。
当時はA級がだいたい7、B級が3の割合の2層制。B級を2期経験し、A級に上がった。「B級の後半になってまくりを覚えて、何か流れに乗れるようになったかなあ」。

しかし、A級に昇級してみたら、先行してもズブズブ抜かれる始末。「上がってから 何場所目くらいかな。同期の選手が逃げて、たまたま、その番手の外にいる展開になったんです。そしたら、初めて準決を突破して、決勝に乗れたの。これはいいな、となった訳だね」。
それからだ。追い込み一本で戦い始めた。「それも番手の外。3番手が回れても、誰がこようと、その位置にこだわった」。
学校時代、人に言われるのが大嫌いだった男が自らやり始めた。

今回、天野さんに話を聞いて初めて知ったのだが、街道で自動車の後ろについて練習したのは天野さんが全国で初めて。「バン パーにちょこっ、ちょこっとぶつかってみても何ともなかったから。B級のときからかな、始めたのは」。地元の人も仕事の合い間に強力してくれた。
自動車をまくりにいって、 ぶつかって、田んぼに落ちたことも。「タイヤを引きなが ら自動車で誘導してもらう。 時速30キロでついていって、急に40キロに上げてもらう。さらに50キロとへという具合にスピードを上げてもらった」。
この練習方法を伝え聞 いた、競輪評論家で、往年の名選手・白鳥伸雄氏は雑誌に 「こんな練習は愚の骨頂」と書いたが、本人は「この練習が一番、力がついた」と言い切る。競り合いに一番大切なバランスをよくするのにも役立った。「人と同じことをやってもねえ。自分の練習を見つけたやつが強くなる。強い選手はみんなそう。それをやってから、バンクへ入る。でもそこでやる練習は、自分の場合は調整程度だった」。

「丸一日、練習のことしか考えていなかった」。そんな選手生活を送り、デビューして4年目の3月、千葉ダービーでG1(当時の言葉で特別競輪)に初出場を果たした。

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第二回

現役を引退したときは51歳だった天野康博さんだが、4月13日の誕生日が過ぎ、年齢がひとつ増えた。1968年4月に吉田商業高校に進学。36年前のことだ。競輪なんて見たこともなかった。今でもそうだが、その風貌とは反対にギャンブルとは無縁。どのように競輪選手を目指したのか?

吉田商業は自転車の名門だけに、すぐに自転車部に入部と思いきや、「初めはサッカー部に入ったね。でもゴールキーパーをやらされて、いやになっちゃった。そしたら、兄貴の知り合いに、自転車をやってみないか、と言われて入ったんですよ」。でも、所属していただけで、合宿も行かなかったし、練習をさぼったり、プラプラしていたという。

「とにかくね。俺は人からこうしろとか、ああしろとか言われるのが大嫌いでね」。ちなみに飲酒と喫煙は中学校時代から。これは本人に書くな、と言われたが、二日酔いで中学校を欠席した猛者。「あの辺じゃ珍しくないよ」(そんなわけ、あるはずない)。高校時代も酒とタバコは欠かさなかった。

高校3年になり、就職を考える季節がやってくる。人に使われるのもいやだな、と思っていたら、自転車部で同期の笠巻清貴さんが競輪選手を目指すと聞いた。「じゃあ、俺もやろうかな、という感じで競輪学校を受けたんだ」。当時は今と同じく、1年に1回しか受験できなかったが、一発合格。新潟から古沢敏朗さん、遠藤清彦さん、笠巻さん、それに天野さんの4人が29回生として、入学した。総勢101名。

29回生といえば阿部良二、 加藤善行、久保千代志、天野康博と、4名のタイトルホルダーを輩出。「花の29期」と謳われた。現在、GⅠと呼ばれる特別競輪の決勝に、渡辺孝夫(大阪)、中田毅彦(徳島)、田仲俊克(東京)、田中巧(熊本)、塩沢正仁(山梨)らが進出している。今、手元にある72年3月発行の月刊ダービーを見ている。在校時、勝ち星が一番多かったのは、山下文男(和歌山)の89勝。天野さんは模擬レースを129回走り、わずか2勝。下から数えて18番目。「全然、レースなんかわからなかったから、逃げるか、逃げられないかだけだった」。

失格が1回あるが、「そんなレースをしたことがなかったけどなあ」。県選手では遠藤さんが30勝、笠巻さんが26勝、古沢さんは天野さんと同じく2勝。

力が違うなあとか、えらいところに入ったなあとかは感じました?

応えて曰く、「人は人、俺は俺」。そうだった、人に指図される学校そのものが大嫌いだったんだ。まったく目立たなかった競輪選手の卵は、競輪学校を卒業。72年4月16日、弥彦でデビュー戦を迎える。

-越後の闘将-
第一回

昨年、京王閣で行われたKEIRINグランプリ03シリーズ。誰もが最終12Rに注目していた12月30日の第2R。天野康博さんの引退レースだっ た。オレンジの7番車は9着でゴールインした。1972年4月16日の弥彦でデビュー。 31年8カ月の現役生活。通算2407戦221勝、2着297回。51歳でバンクに別れを告げた。78年9月26日、西宮競輪場で行われたオールスター競 輪で優勝。01年8月、小橋正義選手が寛仁親王牌で優勝するまで、それが唯一の新潟県選手のタイトルだった。

引退後、今年1月にあった選手会の新年会で天野さんがあいさつ。「俺もやっとやくざな世界から出られる」と、 ニヤリと微笑んだ。僕が競輪新聞業界の人間としてデビューしたのは83年4月。ちょうどS級、A級、B級のクラス分けとなった、KPKといわれる制度に なった年。天野さんはすでに全盛期は過ぎていたが、競りのきつさと、そのネームバリューは県選手の看板。古代ローマ人の髪型を長めにしたヘアースタイル、 口 ひげ、四角い、がっちりした顔、今時のイケメンとは正反対の顔立ち。

初めて近くで見たのは開催日ではなく、弥彦競輪場へ普段の練習を見にいったときのこと。天野さんは敢闘門近くのバンクの上に腰を降ろし、 自転車から降りたばかりなのだろう、息を弾ませ、汗を拭いていた。今は引退した池田哲男さんがその近辺をうろうろ。レーサーシューズから、 普段のシューズに履き替えよ うとしていたが、見つからないらしい。息が整って、また 天野さんが自転車に乗ろうと した時、お尻の下に体重でつぶれた池田さんのシューズ。 笑った、笑った。池田さんも仕方ねえな、と苦笑いを浮かべた。自分が集中していると周りが見えなくなってしまうのだろう。別に悪びれた風でもない。むし ろ、風格と茶目っ気が入り混じった、いい雰囲気が漂った。

天野さんといえば、切り替えなしで先行の番手で競り抜 くのがスタイル。隊列が整ったころ、おもむろに、競りにいく選手の外へ上がっていくと、場内は湧いた。引退レースのあと、弊社のスタッフが話を聞きにいっ た時、競りの話題になり、「俺は外からしか競りにいかなかった」と応 じている。その代償もまた多 い。落車、故障での棄権だ。 2407レースで棄権が66回 だから、36レースに1回の割 り合い。70年代のころはもっと多かった。落車したあと、 担架に乗せられるのを拒んで鎖骨を押さえて、痛がるでもなく、堂々と歩いて検車場へ引き揚げる姿を見たことがある。骨は当然、折れていた。 今のやつなら、カッケーと叫ぶだろう。

そんな天野さんを何回かに分けて追ってみたいと思っている。52年4月13日に吉田町に生まれ、自転車の名門、吉田商業に進学。そこからスタートしよう

新潟県 名選手列伝 最終回-

総集編

2001 年の4月から今年の6月まで連載させてもらったこのコーナー。創世期のメンバーで もある倉品ミヨ氏から40期の高井俊幸氏、池田哲男氏、皆川正氏まで、全部で20人。様々な話をうかがい、限られたスペースの中で、どこまで話し手の気持 ちが伝えられたかは疑問ですが、今ある競輪をまた違った角度から眺める一助にはなったはず、かな。

1948年11月に小倉(現・北九州市)で誕生した競輪。翌49年には新潟で9名が登録し、そして50年の4月29日に弥 彦競輪が始まった。参加した地元選手は新井進三、斎藤久夫、新井鉄、高田秀吉、堀口茂久、西山一栄、小川進、 倉田浩男の8名。その5月には新潟県競輪選手会が結成されて、登録選手数は26人(うち女子選手は6人)。

88期までに本県では71名が選手登録をして、今、走っている選手は38名だから、41名 の選手たちが引退したことになる。だからこのコーナーで紹介したのは約半分になりま すね。

弥彦競輪が始まって、今年で53年目を迎えますが、選手会の流れからいくと、印象と して、以下のように分けることができるでしょう。いわゆる黎明期、そして早福寿作氏の登場。早福さんに引っ張られて練習した、と語ってくれた方、多かった です。全国区で勝負する厳しさも持ち込まれました。話を聞いても、それまでは、東京へ行くだけでビビッたと…。それに佐野正晴氏が続き、さらに渋川久雄 氏、天野康博選手が特別競輪で活躍を始めた時代。

新しい感覚が入ったのは原田則夫選手が登場した40期代から。56期から67期まで新人の出なかったときを経て、阿部康雄選手、笹川竜治選手が卒業記念 のレースで優勝。そして70期後半から80期代の選手が第一線で頑張る現在。

僕がいつも悲しいと思うのは競輪選手はいつの間にかいなくなるということ。全国的な超有名選手 は、最近、引退式をファンに向かって行える機会があるが、多くの選手たちは期が変わったときに、関係者にしか知られずに姿を消す。最後のレースが終わり、 敢闘門を引きあげてくると、 その開催に参加している選手たちの何10人かが出迎え、花束を渡し、労をねぎらう。家族が参加するシーンも。選手控え室でたった今、引退したばかりの選手 がマイクを持ち、感謝の気持ちを伝える。「みなさんも体に気をつけられて長く選手生活を続けてくださ い」。

体が資本のプロスポーツの世界では、いつかは迎えなくてはならない引退。デビュー したばかりの88回生の登録番号は13900番に達した。 現役選手は約3900人だから、1万人の選手たちが人生の再スタートを切っている勘定です。

アメリカの文化のひとつと言われる野球。スタンドではおじいさんが孫に、過去、球場であった様々なこと、名選手のあんなプレー、こんなプレーを語っ て聞 かす。また、 引退した選手たちを球場へ呼び、スタンディング・オベーションで迎える。選手たちは誇りを持って登場する。競輪界もこうあってほしいと思います。日本人は 熱しやすく、 冷めやすいと言われる。当たった、外れただけの世界にしてしまわないこと。その工夫 をすることが大切だと痛切に思っています。このコーナーもそういう思いを込めて書い たつもりなんですが…。

記念競輪でOBの人に選手紹介の先導をしてもらうのもあり、でしょう。それから、 10年、20年、30年と競輪をやっているファンの皆さん。新しいお客さんを連れてきて、 その人に、競輪にまつわるいろいろな話を語り込んで下さ い。僕も20年以上前に、それでファンになったんです。

今回の取材で、もう終わったことだから、と言われて取材を断念したケースも。今でも現役選手に取材するとき、 終わったレースのことを聞くと、まあ終わったことだからと、気持ちの切り替えがしっかりしていることがある。確 かに、次のことに取り掛かっているのに、また根掘り葉掘り聞くのも何ですよね。その気持ちはよくわかります。

あと、多かったのは、「俺なんて弱かったし、話すことなんて何もないよ」と言われるケース。でもこれがあるんですよ。当たり前ですが…。 こちらが聞きたいのは強い弱いではないんですと、くどき落とすこともしばしば。何10年もプロとして生活した、そのこと自体を聞きたかったのです。

これも多くの人が言っていましたが、20期代くらいまでは競輪のイメージは悪かったみたいです。 それを多くの人が競技で、実生活で払拭していったのです。だから、元選手の誰もが「競輪を支えた鉄人」なんです。

女子選手に出会えたのも貴重な経験。1964年まで行われていました。まだ和服姿の女性が多くいたころに、半パンツで人前に出ることだけで抵抗があった はず。10何年か前に弥彦競輪場で、ファンの前に紹介されたのを覚えていらっしゃるでしょうか?今でも年1回は関東ブロックのOG会の旅行があると聞いて うれしくなりました。
もっと話が聞きたかったという心残りはもちろんあります。名選手としては渋川久雄氏。息子さんは84期でデビューした聡士選手。三条実業(現・三条商 業)から輪界入りし、本県選手として初めて、 特別競輪の決勝にコマを進めた(78年3月の平ダービー4 着)。本県の選手として珍しく、いい意味でシビアなレースをする追いこみ選手でしたね。変わり種としては斎藤興洋氏。相撲界から競輪界へ。 のちに群馬県へ移籍した先行選手。中バンクを使ってのカマシ一本。出られたら1着、 出られなかったら9着。全国的にも個性派といったら、この人の名前が挙がる。
1時間くらいですからと言って、実際は1時間半とか2時間くらい話をうかがいました。貴重なお時間をいただいて、誠にありがとうございました。それか ら、今回の取材にあたり、故・平出次男氏が作成した資料を参照させてもらいました。改めて、ありが とうございました。

-新潟県 名選手列伝20-

倉品 ミヨさん

登 録番号416。弥彦競輪が始まった1950年。「夏ころから走り始めたのかな」というの は倉品ミヨさん(74)。お名前からもわかる通り、64年の11月まであった女子競輪の選手だった。「くそー、あの人ができるんだから、私にも絶対にでき る。その気持ちを持てるのは競輪選手だったおかげです」。取材の中で「競輪は一瞬のスポーツですよ」というのは、その通りだと感じ入った。

よく笑い、よくしゃべる。 そんな倉品さんは与板町の出身。競輪選手になるキッカケはお兄さんのひと言。「おい、自転車に乗らないか」。 思わず「ああ、いいよ」と返事をした。当時、新潟市で働いていたが、そこを退職して競輪界へ飛びこんだ。

「自転車経験はゼロ。町内対抗の運動会で走ったことがあるくらい」。実家のある与板町から母の 作ったお弁当を持って弥彦まで練習に通い、休みは雨の日だけ。許可されてプロの道へ。「初めのころは、練習したあと、階段も上がれないくらい。それを続け ると、脚の筋肉がピキッ、ピキッとなってくる。へえーと思ったりした」。

「初出走は前橋だったかなあ。1着か2着になって、お客さんに叱られた。恐ろしいところだと思った」。まったくのノーマークの選手だったからだろう。お 客さんの気持ちもわからなくはない。

戦法は先行。地脚はあったけど、回転に難が。当時はペダルに足を固定させない、実 用車のレースがあったが、 「これは強かったですねえ」。 でも、今でいうレーサーでは 力が発揮できない。「今になって思えば、基礎がまったくできていなかったし、コーチとかもいなくて、自分ひとりでしたから」。フォームも何も実用車の乗り 方になってい たのだろう。

ただ、負けん気はすごい。 「お金を稼がなくては、それしか頭になかった」。自分で自分を叱咤激励しながら走っていた。

「メンバーを見て、 これは勝てる、絶対勝ってやろうと思うと、神経がピピッとなって、冴え渡る。そういうものなんですねえ」。「生半可な気持ちじゃ、お金なんか稼げない」。 ハングリー精神なんて、きれいな言葉では表せない、そんな気概が倉品さんの体から発するのがわかる。

優勝は3回くらいという倉品さん。松阪の準決、生涯で唯一のまくりで勝って、宿舎になっていた旅館で松阪牛をみんなで囲んだ。「おいしいものを食べ過ぎ たかな、油っぽいものや美食が抜けない。 それが困ったものかな」。

-新潟県 名選手列伝19-

高田 秀明さん

県 選手の創生期のメンバーでもある高田秀吉さん(故人)の息子さんが高田秀明さん (51)。1971年1月に28期生としてデビュー。2001年7月に引退だから現役生活は30年を超える。「俺なんか、何も話はないよ」と語る高田さ ん。「30年の選手生活といったって、たまたまクビにならなかっただけだから」。 ほんとですか?

まずは高田さんの父・秀吉さんのこ とから。4・00の大ギアを駆使し、先行、まくり を武器に特別競輪にも参加した名選手。来年、23回忌を迎える。競輪が始まったのが1948年11月の小倉競輪場。その翌年には秀吉さんを含めて、9名が 県選手として登録している。そして、弥彦競輪が県営として初めて開催されたのは1950年4月29日。その第5レースに秀吉さんは出走し、県選手として初 の勝利をものにしている。ちなみに1着賞金は5500円。距離は1200メートルだった。

父から「試験は1回だけ。落ちたらあきらめろ」と言い渡された高田さん。これを高校3年の時にクリアして輪界へ。同県同期は渋川久雄、平原康広、高野競 一。「渋川、 平原は強く、俺と高野は弱かった」。

デビュー戦は父と同じ配分で前橋。平原さんが優勝。父と同じ配分はその後、平で1回あるだけ。「配分はもっとあったと思うけど、欠場とかしていたんだろ うね。お互い気を使っていやなもんなんです」。73年の10月に秀吉さんは引退。「背骨が外から見てもS字になっていて、腰も悪かった。ああだ、こうだと はまったく言われなかったね。親父は強かったけど、息子は下の方でパタパタやっていたのが気の毒だったかな」。

そんな高田さんはすごい経験をしている。デビュー2年目の1972年。11月3日からの岸 和田記念に早福寿作さんと参加。「早福さんは決勝に乗って、俺は初めて記念の予選で 1着」。競走が終わって、大阪でぐっつり呑んで、寝台の 「きたぐに」で新潟へ。

「車内が何かさわがしいので起きた。早福さんが見に行ってから、煙が出てきたので パジャマの上に背広を引っ掛けて、窓を開けて外へ出たんだよね。トンネルの中で真っ 暗。人が行く方向へ歩いていった」。これが死者30名、負傷者700人以上を出した、 日本の鉄道史上に残る大惨事 「北陸トンネル火災事故」だった。

早福さんとも落ち合い トンネルの中を歩き続けた。 事件を知ったのは6日の朝。 「翌日の夕方に家に帰ったのかな。新潟日報に負傷者で俺の名前が書いてあったらしくて、心配もかけたし、怒られた。何も連絡してなかったから」。

「人間、自分はそんなことには遭わないと思っているからねえ」。

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