-越後の闘将-
第一回

昨年、京王閣で行われたKEIRINグランプリ03シリーズ。誰もが最終12Rに注目していた12月30日の第2R。天野康博さんの引退レースだっ た。オレンジの7番車は9着でゴールインした。1972年4月16日の弥彦でデビュー。 31年8カ月の現役生活。通算2407戦221勝、2着297回。51歳でバンクに別れを告げた。78年9月26日、西宮競輪場で行われたオールスター競 輪で優勝。01年8月、小橋正義選手が寛仁親王牌で優勝するまで、それが唯一の新潟県選手のタイトルだった。

引退後、今年1月にあった選手会の新年会で天野さんがあいさつ。「俺もやっとやくざな世界から出られる」と、 ニヤリと微笑んだ。僕が競輪新聞業界の人間としてデビューしたのは83年4月。ちょうどS級、A級、B級のクラス分けとなった、KPKといわれる制度に なった年。天野さんはすでに全盛期は過ぎていたが、競りのきつさと、そのネームバリューは県選手の看板。古代ローマ人の髪型を長めにしたヘアースタイル、 口 ひげ、四角い、がっちりした顔、今時のイケメンとは正反対の顔立ち。

初めて近くで見たのは開催日ではなく、弥彦競輪場へ普段の練習を見にいったときのこと。天野さんは敢闘門近くのバンクの上に腰を降ろし、 自転車から降りたばかりなのだろう、息を弾ませ、汗を拭いていた。今は引退した池田哲男さんがその近辺をうろうろ。レーサーシューズから、 普段のシューズに履き替えよ うとしていたが、見つからないらしい。息が整って、また 天野さんが自転車に乗ろうと した時、お尻の下に体重でつぶれた池田さんのシューズ。 笑った、笑った。池田さんも仕方ねえな、と苦笑いを浮かべた。自分が集中していると周りが見えなくなってしまうのだろう。別に悪びれた風でもない。むし ろ、風格と茶目っ気が入り混じった、いい雰囲気が漂った。

天野さんといえば、切り替えなしで先行の番手で競り抜 くのがスタイル。隊列が整ったころ、おもむろに、競りにいく選手の外へ上がっていくと、場内は湧いた。引退レースのあと、弊社のスタッフが話を聞きにいっ た時、競りの話題になり、「俺は外からしか競りにいかなかった」と応 じている。その代償もまた多 い。落車、故障での棄権だ。 2407レースで棄権が66回 だから、36レースに1回の割 り合い。70年代のころはもっと多かった。落車したあと、 担架に乗せられるのを拒んで鎖骨を押さえて、痛がるでもなく、堂々と歩いて検車場へ引き揚げる姿を見たことがある。骨は当然、折れていた。 今のやつなら、カッケーと叫ぶだろう。

そんな天野さんを何回かに分けて追ってみたいと思っている。52年4月13日に吉田町に生まれ、自転車の名門、吉田商業に進学。そこからスタートしよう

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