-新潟県 名選手列伝①-

早福 寿作さん

「先行選手だったときも、けっこう暴れたからねえ」。ついたニックネームは”黒い弾丸””チビッコギャング”162センチ、 58キロ、恵まれたとはほど遠い体。71年の取手記念を含んで優勝は30数回。2469戦294勝。まさしく新潟が生んだスター選手第一号で、上越ライン の基礎を作った選手でもある。

「競輪の魅力は競りだね」と即座に答えてくれた。早福さんが全盛だった昭和40年代は一番強い先行選手に一番強いマーク屋 がついて本線を作りレースが進んでいった。今のようなラインとラインの戦いではなく、「個人と個人の戦い。競りでも先行でもどっちが勝つかっていうのが面 白かったねえ」。だから弥彦バンクでの思い出も、12回の優勝ではなく、記念の準決勝で「ダービーを取る前だったかの荒川秀之助にインからぶつかっていっ たけど、ビクともしなかったねえ」となる。

意外と知られていないのはデビューした65年から1年半は群馬の鈴木保巳(現・競輪評論家)道場に住み込み、「そこからレースにも行っていた」こと。先 輩の小川良雄さん(引退)の勧めでデビュー戦の宇都宮で3連勝したあとすぐに道場の門をたたいた。昼について、翌日の朝6時から練習。猛練習を誇った鈴木 道場。新聞紙を体に巻いて、朝6時から40分ほど街道練習(冬はマイナス5、6度)、以下、午前と午後にもみっちり練習して、さらに夜もローラー練習があ る。

早福さんが「道場で自分を作ってもらった」と言い、鈴木さんは「うちの道場の礎になってくれた。福島正幸、木村実成が強くなったのも早福のおかげ。あの 練習に耐え切ったんだからすごい。一番いいのはまじめだったこと」と応える。ともに感謝し合う、師弟関係の理想だろう。

道場の解散後も冬には前橋へ移動して練習した。そして早福さんを頼ってほかの選手も。今も若手は前橋へ冬季移動し、そこでいろんなことを学び、また春に なると新潟へ帰ってくる。

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