-越後の闘将-
第四回

前回、人に言われるのが大嫌いな天野康博さんが、全国で初めての、街道の自動車誘導を始めた話を書いた。「一流選手は自分独自の練習方法を持っている」と、天野さんは言う。でも、その練習をやれる体を持っていた、というのも見逃せない。「デビューしてから7、8年くらいは目いっぱいやった」。

A級で番手、番手のレース を始めた1973年。阿部道 (宮城)、福島正幸(群馬) とともに、当時3強と言われた群馬の田中博に外から競りかけた。当時の競輪は、今のような地域重視で並ぶものではなく、一番強い追い込み型が、一番強い自力型の番手を主張するもの。追い込み型は競り勝つか、後ろから前の選手を抜くかで、自分の番手をひとつ、ひとつ上げていく。

早福寿作さんがルートを築いたといっていい、冬場の前橋への移動。当然、天野さんも群馬へ出かけようとした。しかし、田中さんに競ったことがよく思われず、それならと、ひとりで千葉県は九十九里浜の成東町へ。「東京のおじさんの紹介でそこにした」。

宿泊は冬場は使わない海の家(新潟でいう浜茶屋)。太平洋の風をまともに受ける。「真っ暗なうちから起きて、何十キロかウォーミングアップで乗って、めし。鴨川まで往復100キロを乗って、めし。近くの山へ何十本かもがきにいって、めし」。

「体がこわれちゃうじゃないですか」と尋ねると、笑って「俺は体が丈夫だったから。 みんなと合宿をやっても、全然へばらない」。山崎登選手がかつて、こう言っていた。「練習したあとにがっつり呑んで、こっちは疲れと二日酔いでどうしようもないのに、 天野さんは、平気な顔で、翌日の朝、練習やろうと迎えに くる」。

「まあ、次の年は近くの民宿に泊まったけどね。千葉へ冬季移動したのは3、4年くらい」。

天野さんがまだ現役だったころ、選手会の新年会の2次会で席が隣りだったことがある。「俺はね、素質なんて、 全然ないから、練習するしかなかった。だから、雨が降って、練習ができないときでも 上がらないかなって、気になるんだよね」と話していたことを思い出した。

デビューして4年目の76年 3月。千葉で行われた日本選手権競輪(通称ダービー)が特別競輪(今のG1)の初出走。結果は2着、6着、4着、5着。千葉県と天野さんには少なからぬ縁がある。

千葉で特別に初参加し、9回目の特別競輪が78年9月の第21回オールスター競輪。それまでの特別で32走して、1 着4回、2着3回、3着6回の男が、そこでとんでもないことをやってのける。

次回へ続く

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