-越後の闘将-
第六回

さて、この連載も残り2回です。番手を狙う競走で強豪への階段を登っていった天野康博さん(52)。1978年9月の西宮オールスターで県選手初の特別競輪のタイトルを獲る。その前の年からの流れを追ってみる。

デビューが72年4月。それから5年を迎えた77年。天野さんは全盛期に入った。ほとんどが記念の出走だったが、 特別競輪を除くすべての開催で決勝にコマを進めた。28期 で日本一のマーカーとして名をはせた国持一洋さんと天野さんだけの記録だ。

「無駄な力が入らず、重心が下に沈み込んでいく。どんな展開でも対応できる。例えば、目の前で落車があってもまるでスローモーションを見ているように、こうなるから こうよけるといった具合。競走で後方に置かれても自分が直線で踏んでいくコースが、 ほかの選手を縫うように見えるし、その通りに踏める」。 これはひとつの境地。アテネ五輪の女子マラソンで優勝した野口みづき選手が、「練習はウソをつかない」と言ったが、天野さんにも結果がついてきた。

当時の記念競輪は3日制。 初日に特選シードされると、 全員が準決(準優と呼ばれて いた)へ進出。準決の3着以内が決勝(優勝戦だったな)に。「だから、準優の3着が問題なんだけど、目標にした選手が出られなくても、どんな位置からでも3着にこられる自信があった」。

そして翌年78年3月のいわき平で開催された日本選手権競輪(通称ダービー)で事件が起きた。当時のダービーは1月、2月にトップの216人がトライアルを2回走り、その得点の上位選手が本大会に出場できた。天野さんは特選シードの得点を稼いだが、失格が多いという理由で、本大会の出場を取り消された。「それならトライアルに参加させるな、ということです」。

ちょっとした騒動となったが、決定がくつがえることはなく、天野さんはテレビでダービーの決勝を見る。メンバーの中には同僚・渋川久雄さんの名前があった。

すべて6日制だった特別競輪の前後1週間以上、参加選手は配分があいていた。「特 別競輪はだいたい渋川さんと一緒だったので、そのとき、 あっせんのない若手も誘い、 合宿をしてから特別に参加していた」。

決勝の渋川さんは、先行する山口健治―山口国男―藤巻清志の4番手を回って4着。 「参加できない悔しさもあって、今度は俺がやってやるという気になりました。闘争心に火がついて、かえって、よかったのかもしれません」。