-新潟県 名選手列伝⑨-

小川良雄さん

戦後の日本のスポーツ界は1964年の東京五輪を境に大きく変わったし、新潟も64年の国体が境界線になる。県選手のスター第一 号の早福寿作さんが競輪界に飛び込んだのが64年。このあたりから全国区の選手が続々と登場するが、それ以前の本県の賞金王は小川良雄さん(68)。54 年の6月に兄の進さん、貞夫さんに続いて19歳でデビューし、特別競輪にも出た。新支部長の小川隆選手の父でもある。

小川さんの脚質は超スプリント。選手になる前も、なってからも、街道練習では女子選手にも置いていかれた。「今はもがきが 中心だけど、当時は練習といったら周回練習のこと。多くても6人で百周くらいする」。初めて後楽園競輪場へ行ったとき、何十人の選手が2重、3重になって 周回練習する様を見た。「こんな練習をしている選手たちと競りなんてできない」。もちろん、それだけが要因ではないが、A級のときは160センチ台の体で 先行一本。

50年代当時、弥彦競輪場周辺の道で舗装されていたのは大河津分水の橋だけ。自転車のライトを5個持ち、そこでもが
く。タイヤの回転でライトがつくが、やがて生み出す電力に耐えられずに球が切れる。持っている球が全部切れるまで続ける。「だんだんと持久力がついていっ たんだろうねえ」。もちろん、こんな練習をしているなんてことはおくびにも出さない。それがそのころの男。

「生涯、自力だったのはまくりの高田秀吉さんと先行の僕。それに堀口轟さんくらいでしょう」。高田さんは4・00 の大ギア(当時、小川さんで3・20。総体的に今よりギアは小さい)で中バンクをまくっていった。「高田さんに負けたくないと思って練習したんだね」。

デビューした54年にB級で18連勝(特進制度はまだない)。12月から20年以上、A級をはった。そして70年代の後半、冬場にバンクで除雪機を操作 していて、誤って右手の中指と薬指を巻き込む。20年以上経った今でも、痺れが取れないほどの大事故。B級へ。

A級戦の優勝は弥彦の1回のみ。本命は何回もついたがなぜか勝てなかった。「優勝するには何かがあるんでしょう。気持ちの持ち方とか何か」。弥彦で優勝 した晩の祝勝会。もらった賞金より飲み代が上回った。「それだけはよく憶えている。そんなの聞いたことないよ」。笑いながら、体をのけぞらせて教えてくれ た。

小川 隆 僕がだらしないというのもあるけど、父は歯がゆかったのでしょう。一人前にしようと、僕には厳しかった。1回も ほめてもらったことはない。でも、今になって、その意味がわかるようになった。