-新潟県 名選手列伝⑭-

古沢 敏朗さん

1997 年11月で25年間 の選手生活にピリオドを打つ。現在は競輪場の相談員として従事している古沢敏朗さん(52)。A級優勝こそ笠巻清貴さんの先行を追い込んで、売り出し中 だった菅田順和を破った1回だけだが、「決勝にはこれでもけっこう乗っていたんだよ」と笑う。「今は売り上げの方が気になるね」と、このときは真剣な表情 になった。

吉田商業出身。現役時代はもちろん、今回、お話を聞くまで自転車部だとばかり思っていた。「帰宅部。運動神経はよかったと思うけど。部活動は相撲部に 助っ人でいたく らいかな」。卒業して1年ばかり東京へ行って、地元に帰ってきた。現役だった和田浩八選手の甥子さんと古沢さんの兄が知り合いだったことから、競輪選手の 話を聞いて、 「まあやってみるか」と和田さんの門をたたいた。「高収入というのも、当時は知らなかった」。

1年半の練習で29回生の試験に合格。その後、特別競輪の優勝者を4人も出した「花の29期」と言われただけに、そうそうたるメンバーが集った。 「最初 の3000m独走では上位にいたけど、バイクの後ろにつく、周回練習が始まると、すぐに下位クラスになった。強いのがゴロゴロいて驚きましたよ」。でもす で に在校時に、その後の選手生活を苦しめる腰痛が襲っている。「血統でしょう。骨格がそうなっている」。

デビュー戦は1972年4月の弥彦。笠巻清貴さんと同じ配分で、決勝は先に逃げて、 笠巻さんのカマシを急追して準優勝。でも1カ月後に腰の痛みが出て4カ月も休む。家 の人たちは「やめた方がいい」 と言ったが、続行した。1年目の冬には群馬のカイロプラクティックへ。新潟でも安塚の方にあった治療院に通ったし、分水町に知り合いが治療院を開業してか ら長い付き合いが始まる。

「それまで何ともなくて、急に動けなくなってしまう。発走前の準備体操で体が曲がったままになって、急きょ欠場なんてこともあった」。1983年1月に は小倉で股関節はく離骨折。「このときはもうダメだなと思った」が、7カ月休んで復帰した。「選手の体は丈夫にできているんだな」と笑う。「でもこの事故 が引退を早めたと思う。腰もなかったら、もっと長めの乗り込みもできたのに、と思うことはある」と振り返るが、 「だからといって、強かったとは思わない。もう少しはやれたかなと思うくらい」。そう言ってまた笑った。

PAGE TOP