-弥彦競輪50年の足跡-

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今回は昭和36年から45年までの弥彦競輪と新潟県選手会の動きを競輪界の流れとともに紹介する。昭和35年に新潟県が全面撤退したため、36年度の弥彦競輪は年間 12開催で、弥彦村が7回、新潟市が2回、三町村組合が3回行われた。そして38年度まで続いて、39年度から新潟市が三町村組合に加入したため、弥彦村 7回、四市町村組合5回の開催となる。これが平成10年まで続くことになった。

昭和39年11月に新潟市の鳥屋野に初めて場外車券売り場を開設した。当時は周りに6軒しか家がない、のどかな場外だった。その後ヒカリファイバー の導 入に伴い58年3月に改装し、さらに大型テレビジョンを配置した平成7年にリニューアルして現在の新潟とやの場外に至っている。

本場も雪のためにしばしばつぶれることがあった木造の観覧席を昭和 42年には鉄筋の観覧席に改修するなど、施設の充実を図っていった。

昭和39年 女子競輪の灯が消 える

さて昭和36年から45年の競輪界といえば高度成長期ということもあり、年々ファンの増加が見られたが、それでも36年に明石、37年に 福岡、38年に会津、39年に住之江、42年に長崎と競輪場が廃止、休止の憂き目にもあっている。

一世を風びした女子競輪も年々力の差が歴然となったため低配当続出で、人気はちょう落。ついに昭和39年に女子選手(在籍229人)の登
録が取り消しとなって、完全に灯が消えた。さらに主催者がつねに上位クラスのあっ旋を希望したために、徐々にA級選手の増加、B級選手の減少に努めた。そ して昭和42年度に現行のA級4班、B級4班制からA級5班、B級2班制へ踏み切った。A級は2449人、B級は1302人で、A級の内訳は1班119 人、2班489人、3班609人、4班610人、5班622人で編成された。

昭和40年代 早福、佐野時代 が到来

新潟県選手会は昭和34年8月の役員改選で倉田浩男に代わって理事長に根立誠一が就任した。選手の変動もあまりなく、36年に倉田浩幸、 39年に早福寿作、40年に丸山清人、41年に鎌田洋海、鳥部義信、佐野正晴、42年に阿部正義、44年に高橋敏、藤原実(旧姓塚原)、小柳研児、鎌田登 美男、45年に斎藤興洋、皆川賢治が入会。昭和38、39年では小川良雄(隆の父)が県勢では一番活躍していたが、全国を席巻させたのが39年デビューの 早福。B級10連勝で一気にスター街道を歩み、「黒い弾丸」の異名を取った。さらに41年デビューの佐野もB級10連勝を飾り、その後47年まで早福、佐 野時代が続くことになった。
(つづく)

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