|
―競輪選手になろうと思ったきっかけは?
「叔父の竹内忠さん(現在は師匠)からの影響が大きいと思います。中学校までは野球をやっていたのですが、将来は普通の人がやっていないようなことをやりたかった。それで、自然と競輪選手になろうという気持ちになった。自転車部があった燕工高(現在は三条工高と統合され、新潟県央工高)へ進学したのも、選手になるためでした」
―2005年の千葉インターハイ自転車競技、チームスプリント優勝など、高校時代は競技で大活躍でした。
「燕工高最後の卒業生でしたから、千葉インターハイは燃えました。ただ、僕個人の能力的には中途半端というか、スピード系、スタミナ系、どちらもトップレベルではなかった。新潟県内では戦えましたが、全国ではあと一歩という感じでした」
―高校卒業を経て、競輪学校へ入学するわけですが?
「能力的に微妙だったので、苦労しました。高校在学中の92期から競輪学校を受験したのですが、やはりダメでしたね。93期も落ちて、3回目の受験、94期でようやく合格できました」
―約1年、「浪人」生活となったわけですか?
「はい。浪人していた1年間は、本当に練習づけの毎日でした。気持ち的にもつらかったですが、『目指している道のためだ』と、自分に言い聞かせて、日々練習に励んでいました」
―3度目の受験、94期の時は手応えがあった?
「それなりのタイムを出せたので、大丈夫かなあとは思っていましたが。合格の報を受けた時は、本当にうれしかったです」
―競輪学校での生活はどうでした?
「いろんな意味でキツかったです。日々のスケジュールがぎっしり詰まっているので、自由な時間がほとんどないですから。練習もスケジュール通りなので、自分がやりたい練習がなかなかできない。同じ夢を持った同期の仲間達との生活は楽しかったですが、練習に関してはちょっとストレスがたまりました」
―競走成績に関しては?
「全然、先行できなくて。人の後ろを回るばっかりで不甲斐なかった。卒業記念では準決勝まで行けたけど、まだ力が足りないです」
―3月末に学校を卒業してからは?
「新潟の先輩選手と一緒に練習させてもらっているのですが、自分の足りない部分を思い知らされています。あー、ダメだなあって。学校時代、モガキ中心の練習だったこともあって、持ち味だった持久力が低下してしまった。今は学校入学前と比べて、かなりマイナスの状態。長い距離を乗り込んで、元の状態に戻すことで精いっぱいです」
―7月にデビューです。保科圭太を売り込んでください。
「まだ能力的に足りない部分ばかりですが、気合だけは負けないつもりで走ります。競輪選手というチャンスを与えられたので、上を目指して頑張っていきたい。応援をよろしくお願いします」
|